YouTubeに動画を継続的にアップロードする人々は、”YouTuber”と呼ばれるのが普通です。YouTuberが投稿する動画は、形式的にも内容的にも多種多様であり、動画である点以外の共通点は認められません。
ただ、大抵の場合、YouTuberと呼ばれる人々は、その生計の少なくとも一部を、投稿される動画とともにYouTubeが表示する広告による収入、あるいは視聴者から提供される金銭に依存しています。あえて汚らしい表現を用いるなら、「マネタイズ」や「収益化」することを目指してYouTubeへ動画を投稿し、かつ、実際にある程度までこれに成功している人々がYouTuberの名にふさわしいと言うことができます。
ところで、このような意味におけるYouTuberについて、ある疑問を抱いています。それは、YouTuberこそ典型的な「デジタル小作人」、しかも、実に商業主義的なデジタル小作人であるにもかかわらず、なぜ多くのYouTuber、あるいは、世の中の人々がこの点を指摘しないのか、という点です1 。
YouTuberがデジタル小作人であること、収入の道をYouTubeおよびGoogleに完全に依存しており、両者のあいだには対等な関係がまったく成立していないことは明らかです。これはもはや「デジタル小作人」というよりも、むしろ、「デジタル奴隷」の名にふさわしいように私には思われます。
YouTuberが他のタイプの「デジタル小作人」よりも気の毒なのは、次の点です。すなわち、たとえばFacebookや Twitterなどのプラットフォームを利用して好き勝手なことを文字で発信している普通の「デジタル小作人」とくらべ、平均的なYouTuber(?)が動画の製作に投下する単位再生時間あたりのコスト(時間、体力、費用)は途方もなく大きく、少なくともビジネスの環境としては——北朝鮮や中国に進出する企業と同じくらい——劣悪なはずなのです。
YouTubeにアップロードされた動画の視聴者は、遅くともGoogleがYouTubeを買収した約15年前からは、YouTuberたちが製作する動画の見た目に対し、テレビに近い品質を求めているように見えます。そして、YouTuberの方も、動画の再生回数を増やすため、視聴者のこのような要求に応えて見た目の品質を向上させる努力を続けてきたはずですが、その結果、少なくとも私の見るところでは、YouTuberが動画の撮影、編集などに費やすコスト(時間、体力、費用)は、普通の1人の人間が——たとえ仕事としてであっても——正常な生活を送るための限度を大きく超えているように見えます((撮影や編集のために誰かを雇うことで時間と体力を節約することは可能であるとしても、今度は、賃金や手数料を捻出しなければなりません。))。
プロのYouTuberが投稿する動画を目にする機会は多くはありませんが、それでも、再生回数が多い動画を観るたびに、「マネタイズ」し「収益化」するための涙ぐましい努力に頭が下がります。これは決して皮肉ではありません。
「これからのインターネットは動画が主流になる」とか「動画の時代が来る(あるいは来た)」などと無邪気に欣喜雀躍している人々をネット上で見かけることがあります。しかし、上に述べたような事情を考慮するなら、動画の時代なるものがYouTubeの時代であるなら、これは間違いなく、不特定多数に発信する者たちがその主体性を奪われて行く時代でもあるように私には思われるのです。
- 少なくとも、”YouTuber + digital sharecropper”のキーワードで検索しても、ほとんど何もヒットしません、 [↩]