“vox populi vox dei”というラテン語の文があります。「民衆の声は神の声である」という意味です。朝日新聞は、これを「天声人語」と訳します。テレビやラジオによる街頭インタビューは、英語では”vox pop”と呼ばれます。
この格言風の表現は、中世に由来するようですが、典拠は明らかになっていません。ただ、文の意味は、それ自体としては明瞭です。すなわち、「民衆が支持する意見は神の言葉である」こと、つまり、民衆の多数意見はつねに正しいことがこの文によって語られています。
もちろん、「民衆の多数意見はつねに正しい」という主張に万人が同意してきたわけではありません。「知性を欠いた民衆の意見は、よい政治の妨げにしかならない」「民衆の機嫌をとるような政策は、長期的には有害である」「政治的な権力というのは、国家にとって必要なときに民衆が嫌がることをあえて実行するためにある」などの意見は、決して珍しいものではありません。
また、近代以降、具体的には18世紀以降、形の上で民主主義を実現した国家の多くは、普通選挙を初めとして、民衆の声を統治に反映させるための制度を作り上げてきたように見えます。けれども、少なくとも第2次世界大戦までは、民主主義的な市民社会では基本的にどこでも、「民衆の声は神の声である」ことを認め、民衆の声に耳を傾けるふりをする(民衆の対極に位置を占める存在としての)エリートによって統治されてきました。18世紀に民主主義の体制を作り出したアメリカもフランスも、実質的にはエリートが支配する国ですし、西洋世界を代表すると一般に考えられているその他の国々もまた、エリートによって支配されています。重要なのは民衆の声に耳を傾けるふりをすることであり、民衆のなまの声を政治に反映することは、可能でもなく、必要でもなく、好ましくもないと考えられてきたのでしょう。実際、エリートによる支配は、つねに歓迎されていたわけではないとしても、大抵の場合、もっとも現実的な選択肢として受け止められてきたように思われます。
それでも、1人ひとりは名を持たない「民衆」や「庶民」と呼ばれる集団の声には何らかの真理が宿っているのであり、事柄の真相を正確に言い当てるものであるという「神話」あるいは「信仰」は、今でも生き残っているのかも知れません。実際、インターネットの使用が拡大したとき、その効用として最初に期待されたものの1つが「集合知」でした。「多くの人々が支持する意見は正しいことが多い」ことが事実であるなら、集まる声が増えるほど、集約される意見は全体としては正確になるでしょう。たしかに、集合知のおかで急速に発達した分野がないわけではありません。ソフトウェアの開発は、その典型です。
しかし、21世紀になり、SNSの使用が拡大するとともに、”vox populi vox dei”も「集合知」も、少なくとも公共の——つまり、社会全体の利害にかかわる——問題に関するかぎり、単なる「神話」にすぎないことが明瞭になってきたように思われます。というのも、SNSという平面に集められた「民衆」の意見の大半は、反対の立場を考慮する想像力と知性を欠いた単なる身勝手な叫びであり、数を集めるほど、その全体は、それだけ支離滅裂になって行くことを避けられないことがわかってきたからです。「民衆の声」に声を傾けたくても、聞こえてくるのは、雑多な叫びから合成された轟音だけであり、意味のあるメッセージをここに読みとることはもはや不可能であるに違いありません。