Home 世間話 「国葬」をめぐる合意形成について(その2)

「国葬」をめぐる合意形成について(その2)

by 清水真木

この文章は、「『国葬』をめぐる合意形成について(その1)」の続きです。

 (5)また、たとえば日本共産党のように、選挙における自民党の勝利の原因について、これを「国民がバカだから」と総括してみたところで、これは、合意形成には何の役にも立ちません。国葬の実施に狂ったように反対する左派の活動家は、「自民党を支持し、国葬の実施に賛成するのは、ものごとをよく考えていないからであり、よく考えさえすれば、必ず自分たちの主張が正しいとわかるはず」(=自分たちの主張を理解すれば必ずこれに同意するはず、自分たちに同意しないのは頭が悪いから)と思い込んでいる——だから、あれほど苛立ち、そして、居丈高にふるまう——のかも知れませんが、このような独善的な態度が合意形成の妨げにしかならないことは明らかです1

 (6)この10年間のわが国には、よい方向に変化した側面もあれば、悪い方向に変化した側面もある、これが、本当のところなのだと思います。私の生活の範囲でも、よい変化もあれば、悪い変化もありました。生活において大切なものが人によって異なる以上、変化をめぐる評価が人によって異なるのは当然です。

 (7)問題は、同じ事柄について自分とは異なる評価を与える他人というものを許容することができない者が増えたことにあります2 。つまり、本当に憂慮すべきであるのは、そして、共同体全体において解決しなければならないのは、この10年のあいだに——「コミュニケーション能力」なるものの意義がたえず強調されているにもかかわらず——異なる意見、異なるものの見方に対する「耐性」が極端に乏しくなったことです。私自身が国葬の実施に消極的に賛成であるせいなのかも知れませんが、左派に分類される人々の許容範囲は、もはや針の穴のように狭くなっているように思われるのです。

 このような事態の原因は、安倍政権の時代に、国民のあいだで意見の分かれるようなテーマに政治が手を出したことに求めることができるかも知れません。過去の政権が先送りしてきたことを、(解決することはできなかったとしても、)公然と話題にしたことは、それ自体として1つの功績と見なされるべきであると私は考えています。(これは、少なくとも民主党政権には決してなしえなかったことです。)というのも、意見の分かれるテーマが曖昧なままいつまでも先送りされていたなら、左派の政治家や活動家もまた、自分の立場を、腹を立てながらであるとしても、公然と表明する機会を与えられることはなかったはずだからです。また、このような事態は、遅かれ早かれ避けられないことであり、安倍政権のおかげで、その時期が前倒しされ、その分、日本人は、民主主義を育てるための時間の余裕を手に入れることができたと言えないこともありません。

 最近10年のあいだに、重要な政策に関する議論が「可視化」され、何が国民にとって最善の選択であるのか、公共の言論空間の内部において誰もが判定しうる状況が作り出されました。そして、このような状況を受け、私たちは1人ひとり、自分の隣にいるかも知れない「異なる意見の持ち主」「自分の損害を利益と評価する可能性のある他人」に我慢し、不快な思いを味わわなければならないとしても、(怒声と罵声を浴びせるのではなく、)他人とのあいだで丁寧に落としどころを探して行くことを学び、習慣として、また、民主主義社会に生きる者の作法として身につけて行かなければなりません。

 現在の状況に耐え、怒ったり叫んだり口汚く罵ったりすることなく、自分と他人をともに納得させる術を身につけることができえなければ、わが国の民主主義は立ち枯れることを避けられないでしょう。

  1. 「必要なのは論破であって合意形成ではない」などとうそぶく者には、そもそも公共の言論空間で発言する資格はありません。 []
  2. 9月27日を休日にすることもない、弔意を表すことを国民に広く求めることもないと政府が公表したにもかかわらず、それでも国葬の実施に反対するのは、反ワクチンの陰謀論者が他人のワクチン接種を妨害するのとほぼ同じであるように見えないこともありません。 []

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