世の中には、自分が過去に体験したつらいことを簡単に忘れ、そして、思い出さない人がいます。また、つらい過去を思い出すとしても、自分が感じたつらい気持ちを事実から切り離すことができる人、つまり、過去を「水に流す」ことができる人もいます。
しかし、私には、ながいあいだ、このような人々が不思議で仕方がありませんでした。自分がひどい目に遭った過去を思い出しながら「ああ、あのときは大変だったよな」など吞気に述懐するなどということがどうして可能なのか、私にはサッパリわからなかったからです。過去を「水に流す」のは、自分の過去から何も学ばないバカのすることだとかたく信じていたからです。
残念ながら、私が過去の不快な体験を思い出すときには、どれほど昔のことであっても、その不快な感じが一緒によみがえります。これは、過去のある時点におけるある体験についての解釈が、時間が経過しても変化しないことを意味します。私を不快にさせた出来事、人間、事物などは、別の新たな体験によって感じが更新されないかぎり、いつまで経っても私にとっては不快なままですし、過去の私を不快にさせたものが現在の私の意識にふたたび姿を現すと、警告灯が心の中で点滅を始めます。(当然、私は、ある意味において途方もなく強情です。)したがって、たとえば昔つらい思いをした場所には、できるかぎり近づかないよう普段から気をつけています。
もちろん、精神的な「健康」の観点から眺めるなら、過去を水に流すことができる人の方が、私よりもはるかにすぐれているのでしょう。むしろ、私のように、自分の過去を現在に従属させられないのは、一種の「消化不良」に当たるのかも知れません。
それでは、なぜ過去を消化することができないのか1 。
私たちの人生のそれぞれの時期は、それぞれの過去に固有の「空気」のようなものとともに思い出されるのが普通です。この場合の「空気」は、感覚、感情、気分などが渾然一体となったものであり、「色合い」や「匂い」と言い換えることができるかも知れません。空気、色合い、匂いのようなものは、現在から距離が大きくなるとともに、無色透明な現在との対照において、少しずつ明瞭になって行きます。(後篇に続く)
- この問いに対し、ニーチェに倣い、「弱者だから」「病者だから」と答えることは簡単です。しかし、弱者や病者の位置を与えられても、あまり救われません。ニーチェの見解に従うなら、弱者が強くなったり、病者が健康になったりすることは不可能だからです。 [↩]