Home 世間話 過ぎ去らない過去について(後篇)

過ぎ去らない過去について(後篇)

by 清水真木

※この文章は、「過ぎ去らない過去について(前篇)」の続きです。

 昔の記憶が心に姿を現すとき、私たちは、事実とともに、この事実を覆う空気を一緒に思い出すはずです。この空気は、特定の印象深い体験に固有のものであることもあれば、人生の数年間が同じ色合いとともに思い出されることもあります。私の場合もまた、過去の記憶は、それぞれの時期を他から区別する空気を帯び、それぞれ異なる過去の情景が、それぞれ異なる色合いを帯びて心に姿を現します。それぞれの時期や出来事が帯びる空気の違いが人生の区切りとなり、この区切りが明瞭であるほど、過去を「水に流す」こともまた容易になると考えることは、必ずしも不適切ではないように思われます。

 ただ、他の人の場合はわかりませんが、少なくとも私については、それぞれの出来事や時期に固有の空気とは別に、人生の変化の方向のようなものを漠然と指し示すもう1つの空気に長期間にわたってつきまとわれています。この空気は、「物語」と言い換えることができるかも知れません。

 この空気は、上に述べたものとは異なり、人生において出会われる変化の全体的な傾向を示すものであり、この意味において、過去の記憶、現在の生活、未来に関する予想にひとしくまとわりついているように感じられるものです。私の場合、大学に入学したころから現在まで、「零落しつつある」という漠然とした感じに囚われています。

 もちろん、私は、出来事の1つひとつ、体験の1つひとつを「零落の徴候」としてエクスプリシットに解釈しているわけではありません。楽しい出来事、明るい色合いを帯びた記憶もまた、数え切れないほどあります。

 それでも、人生の基調が全体として下降線であり、人生行路に姿を現す新しいことが、基本的にすべて、私の人生とその環境を「衰微」の方向に変化させるものであり、私がみずからの努力によって新たに獲得する成果というものには、零落を一時的に押しとどめる効果しかないというそこはかとない感じが現実を薄い膜のように覆っている状況は、30年以上も変わりません。過去を「水に流す」ことが今のできないとするなら、それは、この同じ空気に支配されているからであり、過去が本当の意味において過去として葬られていないからであるように思われます。

 人生に対し長期にわたってまとわりつく「物語」から自由になることこそ、心の健康への道であるのかも知れません。

関連する投稿

コメントをお願いします。