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名前によって女性と勘違いされることについて

by 清水真木

 私は、その名前のせいで女性と間違えられることが少なくありません。私の経験では、私について予備知識を持たない場合、少なくとも3人に2人が私の名前から女性を想起します。したがって、私の名前を聞いて女性と勘違いした男性が、私のことを実際に見て「なんだ男か」と口走る場面には何度も身を置いてきました。(幸いなことに、しかし、「女性のような名前の男性」であることが原因で直接の不利益を被ったことは一度もありません。)

 私の名前はよほど女性的であるらしく、過去には、戸籍や住民票の記載すら無視されたことがあります。

 小学校に入学したとき、入学式の受付で学校から名札を渡されました。現在はどのような名札が渡されるのか、あるいは、そもそも、名札が渡されるのかどうか、私は知りませんが、私が小学校に入学した1970年代の杉並区では、名札が1人ひとりに手渡されていました。

 男子児童の名札は、氏名が黒字で記されたもの、同じように、女子児童の名札は、氏名が赤字で記されたものであり、それぞれ、同じ色で縁取りされたカードケースに入っていました。少なくとも1年生の1学期のあいだ、児童は、カードケース入りの名札を校章とともに胸につけて毎日登校することになっていました。

 そして、もちろん(?)、私が入学式の日に受け取ったのは、赤字で氏名が記された赤枠の名札です。また、名簿——当時は男女別々でした——でも、私の名前は女子の方に入れられていました。新しい名札が渡され、名簿が修正されるまでの1週間ほど、赤い名札をつけていたのを今でも憶えています。

 その後、女性と勘違いされることがあまりにも多かったため、少なくとも20世紀のあいだは、自己紹介を必要とする場面では、相手が男性なら、「名前だけ女性です」「男性ですみません」などと、自分の名前を「ネタ」にして先手を打つことにしました。そして、私が「男性ですみません」と言と、相手もまた、これが冗談であることを承知しており、すかさず「本当にがっかりしましたよ」などと反応してくれました。

 しかし、20世紀が終わるころから、自己紹介のときに「男性ですみません」と発言すると、ときどき、「卑下する必要はない」「そういう性差別的な発言はよくない」などと真顔で忠告されるようになりました。たしかに、厳密に言うなら、「男性ですみません」も「なんだ男か」も、同席している人々の性別あるいは年齢によっては、ハラスメントとして受け取られる危険がないわけではありません。最近は、「男性ですみません」と言うことは控え、面白くもおかしくもない無難な自己紹介で済ませています。

 たしかに、地位あるいは年齢が下の男性に向かって(冗談としてではなく)「なんだ男か」と言うことは、広い意味におけるセクハラに当たります。

 実際、しばらく前に、帝京大学で次のような出来事がありました。教員は、学生の合否を決める権限を持っているわけですから、報道が事実であるなら、これは、問題外の発言であるに違いありません。

 ところで、春学期、第1回の授業のために大教室に行くと、何年かに一度、教室の後ろの方から、「なんだ男か」という声が聞こえてくることがあります。そして、この声とともに、男子学生のグループが席を立って教室から出て行きます。私の姿を見て、私が男性であることを初めて知ったのでしょう。このような学生が授業の担当者に何を期待しているのか知りませんが、少なくとも、担当者が女性であることは、一部の男子学生にとっては、その授業科目を履修するインセンティブになっているようです。
 学生は教員に対して何の権限も持っていませんから、学生が教員の聞こえるところで「なんだ男か」と口走っても、この発言は、それ自体としてはハラスメントには当たらないでしょう。
 ただ、大学当局は、もう何年も前から、キャンパスにおいてあらゆる意味における「多様性」に配慮するよう、学生と教職員に対し繰り返し呼びかけてきました。私の聞こえるところで「なんだ男か」と何のためらいもなく口走る21世紀生まれの学生が大学にいることは、多様性をめぐる啓蒙の試みにおける大学の敗北を意味する事実です。私は、この「昭和のオヤジ」のような男子学生の将来について若干の危うさを感じます。

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