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教養としての「教養としての」について(後篇)

by 清水真木

※この文章は、「教養としての『教養としての』について(前篇)」の続きです。

 (2) しかし、不思議なことに、数年前から、世間は、教養に対する普遍性の要求すら放棄し、教養に「実用性」(!)を求め始めたように見えます。上に掲げた文章において、私は、

「教養としての金儲け」なるタイトルの書物が世に送り出されるとき、「教養としての」は、完全にナンセンスな6文字となる

と述べました。最近は、「教養としての」は、言葉の本来の教養とは何の関係もないもの、「ビジネスで役立つ」の同義語へと変質しているようです。厳密に言うなら、この場合の「教養としての」に含まれる教養とは、「職業生活の現場に身を置くことで否応なく押しつけられるわけではないが、身につけることでビジネスにおいて優位に立つことができるような知識や技能」を意味するようです。もちろん、ビジネスというのは、教養と人間性の外部にあるものであり、少なくとも私の目には野蛮が支配する領域以外の何ものでもありません。

 なお、上に引用した文を記したときにはまだ知らなかったことですが、のちに、すでにこのときには『教養としての投資』という意味不明の表題の書物が流通していたことに気づきました。

 書物をひもとくことによって獲得されるかぎりにおける「教養」がビジネスに何らかの影響を与えるとするなら、それは、視野を広げることによりビジネスから距離をとり、ビジネスの価値を相対化する点にあります。しかし、現実には、教養はその本来の意味と役割を失い、「教養としての」は、「ビジネスに役に立つ」ことを表示するナンセンスな6文字に成り下がったように見えます。今後は、言葉の本当の意味における「教養」を身につけることを望むのなら、「教養としての」という6文字を表題に含む書物には手を出さない方が無難でしょう。

 ところで、最近は、「教養としての」の6文字が書物の表題にあまりにも安直に使われるようになったせいなのでしょう、これまで述べてきたように、教養とは何の関係もない事柄が「教養」に含められるようになったばかりではなく、「教養としての」という表現の文法的な誤用もまた散見するようになりました。

 「教養としての」をキーワードにアマゾンで検索すると、「教養としての投資」の他にも、「教養としての決済」「教養としての神道」「教養としての紅茶」などの不思議な表題の書物がヒットします。そもそも、「教養としてのX」の「X」に代入可能なのは、知識や技能、正確に言うなら、身につけることで「教養」——その意味はともかく——を獲得することができるような知識や技能の名でなければなりません。ところが、私が見るかぎりでは、上に挙げた「投資」「決済」「神道」「紅茶」ばかりではなく、「ワイン」「ラーメン」「金融危機」など、それ自体としては知識ではなく技能でもないものが少なくありません。

 これらの表現を文字どおりに理解するなら、『教養としての投資』は、「投資してみることがそれ自体として教養である」ことを主張する書物になってしまいます。また、「教養としての決済」は「教養としての『決済すること』」、「教養としての神道」は「教養としての『神道の実践』」という意味になってしまいます。「教養としての紅茶」は、これ自体としては完全にナンセンスです。本当は、「教養としての決済システムに関する知識」「教養としての神道学」「教養としての紅茶の蘊蓄」などという表題にすべきでしょう。

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