ごく最近まで、私には「料理研究家」などというものがこの世にいることの意味を理解することができませんでした。
たしかに、テレビ番組、書籍、雑誌、ネットなど、料理の作り方が話題となりうるところではどこでも、「料理研究家」なる肩書きを持つ人々が姿を現し、そして、料理の作り方を指南しています。食品業界に不案内な私のような素人の目には、料理研究家とは、新しい料理、あるいは、既存の料理の新しい作り方などを提案するとともに、大抵の場合、これを実演することを職業としている人々以外の何ものでもありません。そして、この肩書きとともに公衆の前に姿を現す人々の数を考慮するなら、この職業にはそれなりの需要があると考えてよさそうです。
私は、料理研究家、特に女性の研究家が提案する料理やその作り方には、少なからぬ違和感を抱いてきました。たしかに、彼女たちの手になるレシピは、ある意味において「実用的」であるのかも知れません。しかし、その「実用」とは、「短期的なカロリーオフ」「短期的な倹約」「短期的な時間の短縮」「子ども受けする見栄え」「丁寧な暮らし」などにすぎないように私には思われました。
私がこれまでに確認したかぎりでは、女性の料理研究家の手になる料理本は、「長期的な健康を維持することに役に立つ」こと、「忙しくても疲れていても、繰り返し作ることが可能である」こと、「繰り返し食べても飽きない」ことなど、つまり、食生活全体のバランスとクォリティへのまなざしを欠いている場合が少なくないように思われました。今でも、この意見は変わりません。
そして、このような観点からすぐれている料理本は、女性よりも男性の手になるものであり、料理研究家よりもプロの料理人の手になるもののうちに見出すことができます。何と言っても、プロの料理人、特に男性の料理人は、料理研究家よりもはるかに多くの料理を、はるかに多くの回数分、作ってきたはずです。また、料理研究家は、みずからが作った料理を他人に直に食べさせて対価を受け取るわけではありませんが、プロの料理人は、飲食店において現実の客に料理を食べさせて受け取る対価で生計を立てているのであり、この点においても、少なくとも形式的には、料理研究家とはくらべものにならないほど厳しい環境に身を置いていることになります。料理人が公開するレシピには、「数をこなす」うちに自然に辿りつくはずの「実用」が認められることが少なくないように私には思われます。
ただ、何年か前から、飲食店が客に出す料理に、ごく普通の意味における食事の構成要素の範囲を犠牲にして視覚的な効果、つまり「映え」を追求する傾向が目立つようになりました。もちろん、以前から、ごく少数の特殊な飲食店では、「映え」を最優先に作られる料理に出会うことがありましたが、最近は、この傾向は、特殊な飲食店のみのものではなくなりつつあります。そして、「映え」への考慮により、飲食店で出される料理の本来の姿は、大きく歪められる危険にさらされているように思われます。
そして、このような状況のもとでは、不特定多数の客にとっての「映え」への考慮に拘束される料理人よりも、むしろ、少人数の家庭での食事を想定してレシピを提案する料理研究家の方に、実用に近いものを見出す可能性がある、最近になり、私はこのように考えるようになりました。ことによると、何年か後には、料理の本来の姿は、料理人の手になる料理本ではなく、料理研究家の料理本の方に見出されるようになるような気がします。いや、ことによると、すでにYouTubeに公開された料理関係の動画、あるいは、テレビ番組では、このような逆転が認められるかも知れません・・・・・・。