Home やや知的なこと 気分が「普通」であることの意味と価値について(後篇)

気分が「普通」であることの意味と価値について(後篇)

by 清水真木

※この文章は、「気分が『普通』であることの意味と価値について(前篇)」の続きです。

 しかし、それとともに、主に消費生活において、私たちは、感情や気分の支配をそのまま肯定すること、「映える」「ときめく」などの曖昧な指標に最優先で従うことを求める圧力に——女性ばかりではなく男性もまた——たえずさらされています。私たちは、「個性的であることを強いられる」という矛盾した事態に陥っているのです。

 社会の大勢に無邪気に順応することを肯定するかぎり、みずからの心に対する私たちの態度は、2つの極端をたえず往復することを余儀なくされます。

 ただ、感情や気分を抑制したり解放したりするよう社会から求められているとは言っても、大抵の場合、私たちは、みずからの感情や気分を細かく追跡し、正確に把握することを試みているわけではなく、反対に、物象化しステレオタイプとなった「感情」や「気分」を外部から押しつけられ、これを賃金や商品と交換しているにすぎません1

 心を巧みにコントロールして人生を送っているように見えながら、しかし、私たちは、このような生活を続けるかぎり、自分自身を「心の底では」信じることができなくなり、最終的には、自分を完全に見失うことになる危険にさらされているように思われます。

 社会による心の操作を免れ、自己喪失を回避するために、私たちがまず試みなければならないのは、また、最終的な目標ともなるのは、心の「普通」を取り戻すことでしょう。

 心が普通であるとは、昂揚しているわけでもなく、憂鬱でもなく、ウキウキしているわけでもないが、悲嘆に暮れているわけでもない状態、つまり、心が基本的に波立っていない状態のことです。

 もちろん、エピクロスが「アタラクシアー」と名づけた心のこの状態へと繰り返し戻ること、あるいは、少なくとも、この状態を(数学的な意味での)「原点」としてたえず顧みること・・・・・・、心の「普通」を実現し、これを維持することは、現代の社会において決して容易なことではありません。かきむしられて炎症を起こした皮膚のような状態にある心を修復するためには、訓練と習慣づけが必要となるでしょう。
 

  1. 「ニューロマーケティング」は、商取引においてこの交換を組織化する試みです。 []

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