私は、自分が抱えているアイディア、特に、文章にすることを予定しているアイディアを他人には話さないよう心がけています。「アイディが盗まれる」「ケチをつけられる」などのつまらない理由から話さないのではありません。書く前にアイディアを話してしまうと、気が済んだようになってしまうからです。アイディアをさらに膨らませたり、書き記したりする意欲が失せてしまうのです。
ただ、自分のアイディアを誰かに話してみることがつねに有害であるとはかぎりません。すでにそれなりに明瞭な形を与えられたひとまとまりの見解や洞察を他人に向かって述べるのなら、この作業には、一定の効用が認められます。
たとえば、話している途中で、その内容について新しい論点や解釈に気づくことがあります。学会発表のように、すでに出来上がった原稿をそのまま読み上げる1 ときには、このような発見は滅多にありませんが、聴衆の理解を確認しながらいくらか自由に話すことが許されている場面では、活発なコミュニケーションのおかげなのでしょう、新しいことに気づく場合が少なくありません。
また、独創的であると信じていたアイディアを他人の前で披露してみたところ、これが実にくだらない思いつきであったことが途中でわかる場合もあります。内容のくだらなさに愕然として、話を中止したいと思ったことすらあります。
目の前にいる誰かに対し自分のアイディアを開陳するとき、予定していた内容をそのまま話すことは滅多にありません。以前に述べたように、表面的には一方向的な発信のように見えても、現実には、他人に向かって語りかけることは、それ自体として双方向的なコミュニケーションとして成立するものなのです。(下に続く)
誰かに向かって話すときには、誰でも、聴き手の反応を見ながら、そして、自分自身の声を聴きながら、手持ちのアイディアを整理し、変形させ、発展させて行きます。話しているうちに新しいアイディアが思いもよらない形で頭の中に雲のように湧き出してくるのは、話すことがそれ自体として本質的に双方向的、対話的だからです。(下に続く)
ただ、他人に伝え、他人によって聴き取られるにふさわしいと私が信じる内容でないかぎり、話すことの効用を期待することができないように思われます。たとえば、自分だけが聴くことを想定して発せられる「独り言」2 には、このような効果は認められません。
自分のアイディアを語ってみせるためには、他人の立場で自分の声を聴かなければならないのでしょう。
- 少なくとも哲学関係の学会では、事前に参加者に配布された原稿をそのまま読み上げる形で発表が行われるのが普通です。 [↩]
- 独り言が言語の本来的な使用と見なされるのかどうかは、それ自体として哲学の問題の1つです。 [↩]