昨日、次の記事を読みました。
記事によれば、運動部に加入する高校生、大学生、あるいはプロのアスリートの方が、それ以外の人々よりも社会で通用する一般的なルールを軽視する傾向が顕著であることが調査によって明らかになったようです。
小学校、中学校、高等学校などにおける部活に価値を認める人が世の中には少なくありません。また、このような人たちのある部分は、部活には人格形成を促す作用を期待することができると信じているようです。今回の調査は、このような信念には根拠がないばかりではなく、むしろ、現実は反対であること、つまり、スポーツに深くコミットするほど、広い社会で通用する規範に従う力が損なわれる可能性があること、この意味において、スポーツに認められるのは人格形成ではなく人格「破壊」の危険であることを明らかした点に価値を持っています。
しかし、この結果は、それ自体としては、スポーツに特別な関心を持たない私のような人間には、意外なものではありませんでした。「スポーツの経験者は人格の点ですぐれている」という命題については、これの証明となる事実よりも、これを反証する事実の方がはるかに多く見出されるからです。
スポーツの経験者が「人格者」であるなら、その特性は、スポーツの経験があるからではなく、スポーツの経験にもかかわらず獲得されたものであることになります。高校や大学の運動部に在籍した者が道徳的に優秀であるとするなら、その原因は、家庭や指導者を始めとする人間的な環境、あるいは、本人の資質であり、決してスポーツの経験ではないのです。
そもそも、上の調査が対象としているタイプのスポーツ、つまり、チームで行われるスポーツにおいて成功するのに何よりも重要となるのは、「チームの空気を読むこと」と「指導者や先輩の命令に従うこと」です。チームとの一体感を維持し、指導者や先輩に評価されることを「普通の社会」で通用するルールを尊重することに優先させるのでなければ、競技者は、フィールドの外部では犯罪として処罰されるようなことを躊躇なく実行するはずがありません。
ボクシングや剣道のように、相手を直接に傷つけるタイプのスポーツ——つまり格闘技——については、この傾向はさらに顕著であると予想することができます。
スポーツによって養われるのは、人々模範となるような「すぐれた人格」ではなく、ルールを尊重する「スポーツマン精神」でもありません。上の調査には言及がありませんでしたが、小学校から大学までの「体育会系」の部活動が全面的に「成功」するとしても、その成果として経験者が獲得するのは、外部から与えられた命令を一切の疑問を口にすることなく実行する習性、あるいは、自分が帰属する小さな集団の利害を社会全体の利害に優先させる習性以上のものではないように思われます。
もちろん、これらの習性は、健全な社会、特に民主主義社会にとっては明らかに有害です。
私は、以前、次の文章において、民間企業において民主主義にとり有害な習性が育まれていることを強調しました。
しかし、冒頭の記事が明らかにした調査結果の延長上には、スポーツもまた、「反民主主義的」な習性を育む場となりうること、勝者と敗者を産み出すようなタイプのスポーツは社会にとっても教育にとっても有害であるという認識が姿を現します。スポーツが身体の健康を実現する手段となりうるものであるのかどうか、私は知りません。しかし、ある種のスポーツの実践が精神の健康の原因とはなるわけではないこと、少なくともこの点は明らかであるように思われるのです。