これに対し、耳学問としての経済学は、たとえば「限界効用」「資本形成」「景気循環」などの経済学の概念の説明を、他の概念との関係や経済学全体における位置を考慮せずに断片として表面的に受け取ることを意味します。もちろん、耳学問によって形作られた知識を持つ人は、「限界効用」というワードが耳に入れば、一種の条件反射として、これが何のことであるのか一応は理解し語るでしょう。しかし、限界効用という現象を経済学全体との関係においみずからの言葉で説明し、この概念を評価することは、耳学問の人にはできません。
耳学問による知識は、どれほどの量が蓄積されるとしても、統一された全体を形作ることはなく、1つの文脈へと統合されることもないまま、不安定な「寄せ集め」にとどまります。知識の1つひとつが占めるべき位置を全体との関係においてみずから指定することができない以上、砂粒のような知識が、有機的に連関することなく、意識の内部に充満することになるのです。
耳学問の人の発言は、ある芝居に出演することになった役者が、その芝居のストーリーをまったく理解することができないまま、台本を機械的に暗記して演技するのと同じようなものです。つまり、耳学問の人が披露することができるのは、個別の事実と一対一対応しているような、表面的に獲得された断片的な知識あるいは認識にすぎません。
当然、彼/彼女には、応用や「アドリブ」ができません。応用やアドリブが可能となるためには、話題なっている事柄に関する自分の知識や認識が有機的な全体をなしていなければならないからです。芝居におけるアドリブには作品全体の理解が必須であるのと、事情は同じです。
発言するときに使用する言葉まで固定されており、聴き手の理解に合わせて柔軟に言い換えたり、パラフレーズしたりすることができず、その結果、奇抜な発言によって聴き手の神経を逆撫でしてしまうのは、耳学問の人の特徴の1つです。しかし、このような発言は意図的なものではなく、AIによらない原始的なチャットボットのように、状況に合わせて言葉遣いをチューニングすることができないだけなのです。(後篇に続く)