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UnsplashのErnst-Günther Krause (NID)が撮影した写真

価値観の「アップデート」なるものについて(後篇)

by 清水真木

※この文章は、「価値観の『アップデート』なるものについて(前篇)」の続きです。

 とはいえ、私は、さまざまな価値をめぐり世の中で話題となりうるような事柄について、どのような立場からどのような意見が発せられるかを予測することができるとしても、その予測は、過去のパターンの観察の蓄積にもとづく類推にすぎず、いわば「統計的」なものにすぎません。この点において、私の予測は、社会の問題に関しビッグデータにもとづいてAIが行う予測と本質的に同じです。前の文章において、私は、「ウマ娘 プリティーダービー」がフェミニストのあいだで惹き起こす可能性のある否定的な反応に言及しました。この反応について、私は、これを表面的に予測することはできますが、フェミニストの立場に身を置いてその主張を理解しているわけではありません。

 例をもう1つ挙げます。私は、さまざまな種類の性的マイノリティのうち、少なくとも「L」「G」「B」の三者については、その権利が十分に認められるべきであると考えています。これは、以前に繰り返し強調したとおりであり、今でも意見を変えていません。ただ、私自身は、「L」「G」「B」のいずれでもなく、彼ら/彼女らの権利を当事者たちの身になって要求しているわけではありません。「L」「G」「B」が何らかの不利益を強いられているとするなら、それは不公正であり、是正されるべきである、これが私の表明してきた見解のすべてであり、私には、当事者たちと「連帯」したり、当事者たちとともにアイデンティティ政治に身を投じたりするつもりはありません。(下に続く)

 何年か前から、「中高年男性には価値観をアップデートする努力が必要」などという主張を目にする機会が増えました。特に「性別」「労働」「子ども」などをめぐる「常識」(=世間において支配的な見解)なるものの変化があまりにも急であり、そのせいで、この変化に気づかない、あるいは、気づいてもこれを無視する者が中高年男性に多いということなのでしょう。

 たしかに、最近20年くらいのあいだに、社会生活において「言ってはいけないこと」「やってはいけないこと」(とこれに対応する「言うべきこと」「やるべきこと」)が急激に増えました。膨大な数の禁止事項を実感として引き受けることができるのは、自分自身が成長する時期に、これらが一つずつ姿を現す場面に直に立ち会った世代の人々だけでしょう。おおよそ40歳よりも上の世代は、私を含め、このような禁止事項の少なくとも一部について、「受け入れなければいけないことになっているのは知っているが、その理由はわからない」人々が大半であるに違いありません。

 しかし、私自身は――社会生活上の利益という観点から、無視することは好ましくないとしても――毎日のように入れ替わる常識を積極的に引き受けることは、中高年男性にとって必須ではないと考えています。大切なのは、自分自身の常識を「アップデート」してみたり、若い人々の考え方を「キャッチアップ」してみたりすることではなく、地雷が埋まっている危険な場所を特定し、そこに近づかないよう気をつけることです。危険な場所には足を踏み入れないことが課題であるなら、AIと同じように、パターンを蓄積して統計的、機械的に反応することができれば十分であり、また、これ以上は不可能でしょう。

 世の中には、「差別」や「生きづらさ」をいたるところから掘り起こすことを職業にしているような人々が少なくありません。このような人々の宣伝に煽られると、中高年男性は、自分が時代遅れであり、誤った信念に囚われているのではないかと疑うようになるかも知れません。しかし、重要なことは、社会生活において他人とのあいだに摩擦を産まないことであり、決して「改心」したり「反省」したり「アップデート」したりすることではありません。私たち一人ひとりが何についてどのような意見を持とうと、どのような印象を抱こうと、それは、他の誰も侵害することのできない本人の自由です。私たち一人ひとりの内面は、言葉のもっとも強い厳密な意味において「絶対に自由」なのです。たとえば、ある高齢の男性が「女に教育は要らない」と信じているのなら、これは1つの立派な意見です。表明する相手を間違えないかぎりにおいて、これを更めるべきではありません。

 中高年男性にとって必要なことは、みずからの内面を「アップデート」することなどではなく、データを蓄積して予測能力を向上させることです。問題は、私たち一人ひとりの「本心」ではなく、外部から観察可能な「行動」だけだからです。

 心に関するかぎり、自分は自分、他人は他人でしかありえません。

 「ウマ娘 プリティーダービー」について言うなら、問題の広告を見たとき、「フェミニストなら叩くはず」と予測することができればよいのであり、「ウマ娘 プリティーダービー」が女性差別であり人権侵害であるという意見をみずから引き受けなければならないわけではありません。性的マイノリティが問題であるなら、その権利を認めない場合に惹き起こされる否定的な反応を予測し、否定的な反応を避ける手段をためらわずに用いることができれば十分なのです。

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