Home やや知的なこと 「学際性」の逆説について(その3)
(c) 2017 Stuart / Flickr

「学際性」の逆説について(その3)

by 清水真木

※この文章は、「『学際性』の逆説について(その1)」「『学際性』の逆説について(その2)」の続きです。

「学際性」の追求により逆に学問が細分化してしまうことがある

 しかし、学際性の追求は、さらに深刻な有害な事態を惹き起こします。すなわち、「学問の細分化」を克服することを目指して「学際的」な研究にこだわることは、場合によっては、ディシプリンの壁を壊すことにはならず、反対に、「学問の細分化」を促進する可能性があるのです。

 というのも、学際的な研究のために、あるいは、学際的な研究の結果として、何らかの研究領域が産み出されるとき、この研究領域が、今度はそれ自体として新しい小粒のディシプリンとして実体化してしまう危険があるからです。つまり、「学際的」な研究、つまり、既存のディシプリンを結びつけたり、ディシプリンの壁を壊したりするような研究がさかんになるほど、学問の世界に新しい小粒なディシプリンの数が増え、その結果として、学問全体がさらに細分化されてしまうのです。「学際性」の闇雲な追求は、学問の細分化の克服にとってはむしろ有害であると言うことができます。

 たとえば、哲学や倫理学は、好ましくない「学際性」の舞台となりやすい分野です。なぜなら、適当な学問分野や適当な研究対象を表す名詞のあとに「哲学」や「倫理学」を加えることにより、「○○哲学」「○○倫理学」などの新しい「学際的」な分野がたちどころに出来上がるからです。このような分野は、「哲学」や「倫理学」という言葉のおかげで何か高尚なものの印象を与えますが、大抵の場合、その実質は応用的、実用的な研究であり、万人の役に立つことを標榜しています。そして、このような新しい「哲学」や「倫理学」は、大抵の場合、哲学や倫理学からは区別された固有の研究者集団を形作り、伝統的なディシプリンとしての哲学や倫理学とは異なる新しい研究手法や専門用語を産み出して行きます。伝統的なディシプリンとのあいだの通約可能性が見出されないため、哲学や倫理学の研究者は、これら「○○哲学」「○○倫理学」を――その名に反し――哲学や倫理学に属するものとは見なしません。

 「学際性」を体現するはずのこのような分野は、ディシプリンとしてのみずからの輪廓を手に入れることにより、最終的に学問の世界における一種の「はぐれ者」となってしまいます1 。学際性の追求は、哲学や倫理学に限らず、多くの伝統的なディシプリンの周辺に、このような「はぐれ者」を無数に出現させているように私には見えます。

アカデミズムの「アメリカ化」こそ阻止すべき

 現在の日本のアカデミックな世界では、複数の学問の境界に位置を占める研究、複数の学問を融合させたように見える研究などが過剰に尊重されてきたせいで、おびただしい数の小粒の研究分野が平面的にベッタリと、見渡すことのできないほどの範囲に広がり、しかも、日々新しい研究分野がこれに付け加えられるような状況が出現しつつあるように見えます。学問の「タコツボ化」を克服するための努力が、かえって「タコツボ」の数を増やしている・・・・・・、この逆説的な状況は、私の目に、アカデミズムの悪い意味における「アメリカ化」の結果と映ります。

 ヨーロッパの場合、既存のディシプリンの拘束力が強く、研究対象についても、研究方法についても、さしあたりディシプリンの枠組を――絶対に従わなければならないわけではないとしても――尊重されてきました。研究対象の多様化とは、1つのディシプリンの拡張にすぎず、「はぐれ者」のような新しいディシプリンの乱立――学問分野の「タコツボ」の増加――は抑制されてきました2

 これに対し、アメリカでは、ヨーロッパとは異なり、伝統的なディシプリンに強い拘束力がありませんでした。そのせいで、アメリカのアカデミズムは、社会科学を中心として、すでに20世紀後半にはタコツボ過剰と無政府状態に陥っていました。現在の日本のアカデミズム――と文部科学省――は、アメリカを反面教師とするのではなく、反対に、アメリカと同じような状況を日本にも作り出そうとしているように私には思われます。(下に続く)

 学問の細分化を克服するのなら、必要なことは、「学際性」の追求ではありません((社会的な問題への応用可能性ばかりを学問に期待するのは、社会と文化の後進性の反映です。)) 。むしろ、特に人文科学と社会科学では、学問を統合し、タコツボ化を解消するのなら、長い年月の中で試練に耐えて彫琢されてきた基礎的な研究、つまり、ディシプリンの壁を尊重した研究こそ捷径であると私は考えています。

  1. どのディシプリンにも属さない「はぐれ者」となる代わりに、複数のディシプリンのあいだでその帰属をたえず不安定に替え続ける「コウモリ」のような存在になる場合もあります。 []
  2. 日本やアメリカのように、伝統的なディシプリンとしての哲学や倫理学について専門的には何も学ばないまま新しい「○○哲学」や「○○倫理学」の専門家になる、という事態は防止することができます。 []

関連する投稿

コメントをお願いします。