AIに関連する哲学や倫理学の文献を読んでいると、「ポストヒューマン」(つまり「人間的なものの次に来るもの」)や「トランスヒューマン」(つまり「人間的なものを超えるもの」)などの言葉を見かけます。AIに関連するさまざまな分野において、AIの可能性や危険が主題的に取り上げられており、この問題をめぐる見解もまた、今のところは、収束する気配がないまま、多様化する一方であるように見えます。今のところ、私は、このトピックに関する固有の意見を持っていません。
ただ、「ポストヒューマン」や「トランスヒューマン」という表現には、いくらかの違和感を覚えます。少なくとも、ポストヒューマンやトランスヒューマンをあたかも実質を具えたものであるかのように語る試みは、AIの本質を見誤らせることになるように思われます。理由は2つあります。
誰でも知っているように、AIというのは、artificial intelligenceの短縮形です。したがって、形式的に考えるなら、AIがAIであるのは、これが「人工的」(artificial) な「知性」(intelligence) (あるいは知能)だからであり、「人工的」ではない「自然」な知性、つまり、人間に具わる知性に似せ(=ニセ)て作られた、「ニセの知性」であるかぎりにおいてです。人間の自然な知性をモデルとして、これに追いつき、これを拡張するかぎりにおいて、AIはAIであることになります。
そして、AIの開発というものが人間の知性を基準とする「ニセの知性」を目指すものであるかぎり、その目標は、何よりもまず、そして、否応なく、「知性」の規定に拘束されるはずです。言い換えるなら、AIが人間の知性を拡張するものであること、あるいは、人間の知性に代わるものであることを主張することが可能となるためには、「人間に自然に具わる知性」の意味をめぐる普遍妥当的な認識がその都度あらかじめ共有されていなければなりません。しかし、現実には、AIの将来をめぐる予測、評価、期待、懸念などに関してこれまでに公表されてきた膨大な発言は、知性の意味に関する共通了解を欠いているように見えます。これらの発言が十分な基礎を持たない不確実なものであり「砂上の楼閣」であるという印象を与えるとするなら、その最大の原因は、「知性とは何か」という問題をめぐる不十分な反省にあるように私には思われます。(後篇に続く)