もちろん、世界の内部に生起する事実が有限個であり、聴き手の数が有限であるなら、1つひとつの事実に対応する「語るべき事柄」を1人ひとりに合わせて個別に用意することは不可能ではないかも知れません。応用のきかない機械的、断片的な発言のストックしかない耳学問の人にも、考えうるかぎりのすべての状況に合わせて個別に発言をチューニングすることはできるはずだからです。
しかし、誰が考えても明らかなように、事実の個数は無限です。しかも、これはたえず増え続けています。また、少なくともテレビにおける発言の場合、発言する者には聴き手の範囲を制限することはできません。そして、事情がこのようなものであるかぎり、適切な発言には、任意の状況に適応することが必要であり、そのためには、自分が語る当の事柄の全体の有機的な理解が必須となります。
三浦瑠麗氏の発言について、一貫性の欠如を指摘する人が少なくありません。私は、氏の発言が一貫性を欠いているのかどうか、基本的な発言に適切な位置を与えることができるような枠組が認められないのかどうか、手持ちの情報があまりにも少なく、自分では判断することができません。ただ、周囲から一貫性がないと見なされているのなら、その最大の原因は、発言を支えているのが応用のきかない耳学問であることに求められるような気がします。少なくとも、報道のかぎりでは、「競馬でスったって同じじゃないですか」という発言を支えていたのが耳学問であったことは間違いないようです。
たしかに、テレビのワイドショーのコメンテーターとして「無知蒙昧な大衆」に向かって意味ありげなことを語るだけであるなら、耳学問でもかまわないと言えないことはないかも知れません。
しかし、耳学問に頼っているのは、放送局のスタジオに坐っているコメンテーターばかりではありません。私には、政府の意思決定に大きな影響を与える「ブレーン」も、その一部が、事実上の耳学問の人にすぎないような気がしてなりません。
しかし、耳学問の人が政権の中枢において意思決定に関与することは、非常に危険であるように私には思われます。なぜなら、その人物の提案する政策が何らかの意味において「成功」したとしても、この「成功」は、「当たり」にすぎないからであり、「当たり」の何倍もの確率で「外れ」が出るかも知れないからです。しかも、政治家とは異なり、このような「ブレーン」は、政策の成否に一切の責任を負いません。
三浦氏を批判したり非難したりすることの是非について、私は判断を留保します。ただ、一般的な教訓として、耳学問の人が、その耳学問によって不特定多数の人間に影響を与えることが決して好ましいことではないというのは、確実であるように私には思われます。