Home やや知的なこと アイディアを「寝かせる」ことについて、あるいは「ライフワーク」について

アイディアを「寝かせる」ことについて、あるいは「ライフワーク」について

by 清水真木

 「知的発想法」と呼ばれるジャンルに属している書物には、アイディアを「寝かせる」ことの意義を説くものが少なくありません。

 「寝かせる」とは、アイディアの輪廓が明瞭になってきたら、これを記録し、数日から数週間放置することを意味します。(一応の最終形態まで仕上げてから「寝かせる」ことを勧める本もあります。)アイディアと距離をとり、これを新しい視点から見直すことができるようになるのが「寝かせる」ことの効用であると普通には考えられています。

 たしかに、私自身が若いころさまざまな機会に他人から聞かされた執筆に関するアドバイスの中には、寝かせる時間の確保がつねに含まれていました。書き上げたレポートや論文をそのまますぐに提出するな、執筆の計画を立てるときには寝かせる時間を必ず織り込むこと・・・・・・。

 とはいえ、私は、この「寝かせる」というプロセスが得意ではありません。ある程度以上の日数にわたりアイディアを放置すると、そのアイディア自体に飽きて関心が薄らいだり、別の問題に注意が逸れたりして、これを1つの論文や著書に仕上げる意欲が失せてしまうのです。寝かせたせいで無駄になったアイディア(=一定の時間の経過後にメモや原稿の下書きを見直したとき、そのテーマに面白さを感じることができず、論文や本に仕上げるのを諦めたアイディア)は無数にあります。私の場合、アイディアは、寝かせてしまうとそれきり生命を失い復活しないことの方が多いような気がします。

 とはいえ、さすがに論文や著書の場合、書き上げてその日のうちに送り出すことはありません。また、神経を使う相手へのメールや手紙についても、下書きを作ってから1日か2日のあいだ放置し、その後に推敲してから送信するのが普通です。

 ただ、論文については、完全に仕上げてから寝かせるように心がけています。見直したときに「つまらない」としか感じられなくても、ともかくも提出はできるようにするためです。実際、論文を寝かせたあとで内容を修正することは滅多にありません。修正するのは誤字脱字くらいです。私にとり、論文を寝かせることに効用があるとしても、それは、執筆中に気になっていた細かいことが時間の経過とともに「どうでもよくなる」ことくらいであるのかも知れません。

 なお、メールもまた、あらかじめ完成させてから寝かせます。ただ、メールの場合は、誤って送信してしまわないよう、念のため、宛先のアドレスは空欄にしておきますが。

 ところで、アイディアを十分に「寝かせる」ことができるかどうかは、「ライフワーク」と呼ぶことができるような作品、あるいは、関連するテーマからなる作品群を遺すことができるかどうかと深く関連しているように思われます。長期間にわたって似たようなテーマを繰り返し取り上げたり寝かせたりすることに耐えられなければ、ライフワークを形にするなど不可能だからです。

 私は、同じ素材を繰り返し使いながら少しずつ違うテーマで論文を何本も書くという作業がどうしてもできません。似たような素材を繰り返し扱うと、これに飽きてしまうのです。そのせいで、1つの論文で使用した素材を別の論文で使い回さないことが否応なくルールとなります。

 哲学の世界では、「カント一筋30年」「デカルト一筋50年」などという研究者に出会うことが少なくありません。そして、同じことを長期間にわたって飽きることなく続けられるというのは、間違いなく1つのすばらしい才能です。(これは決して皮肉ではありません。)しかし、残念ながら、私にはこのような才能がありません。

 私のこれまでの著書のテーマがそれぞれ異なっており、これらのあいだに明確な関連がないように見えます*1。これは、同じ素材を使い回すとすぐに「このテーマについては十分」という感じに襲われ、そして、飽きてしまうためです。おそらく、他人の目にわかりやすい仕方で「ライフワーク」と映るような作品を遺すことは、私には無理なのでしょう*2

*1:一応、緩やかに関連してはいます。

*2:なお、私の著書のテーマがバラバラになることには、アイディアを出し惜しみする余裕がないという事情もあります。当該のテーマで「次回作」や「続編」を執筆したり発表したりする機会が訪れる保証がない以上、その時点でストックされていることを与えられた制約の範囲で何もかも押し込むことを優先せざるをえないのです。

関連する投稿

コメントをお願いします。