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究極の読書家について

by 清水真木

 「読書家」という言葉は、「本をたくさん読む人」の意味で理解されるのが普通です。たしかに、本を1冊も読まない者に「読書家」を自称する資格はありません。

 とはいえ、読んだ本の量を手がかりに読書家を読書家以外から区別することは不可能であるように思われます。

 たとえば、ビジネス書と自己啓発書を1年間に合計500冊読んだ——このような苦役に耐えることが可能であるとして——者は、目の前を通過して行った活字がどれほど多量であるとしても、決して読書家とは見なされないはずです。同じように、国際政治の専門家が自分の専門分野の研究文献500冊に目を通しても、この専門家が「読書家」と呼ばれることはないでしょう。

 読書家が読書家と見なされるためには、読んだ文字の量よりも、むしろ、その質、厳密に言うなら、書物の内容が読み手にとって持つ意味が大切であることがわかります。

 私たちは誰でも、読書を続けるうちに、その速さを増して行きます。つまり、単位時間内で目を通すことのできる本の量は、特に工夫をしなくても、読書経験に比例して自然に増えて行きます。大雑把に言うなら、読書の経験により、「著者が次に何を言いそうか」予測することができるようになるからです。したがって、読書の経験が最終的に辿りつく地点は、「表紙を見ただけでその本の内容を言い当てる」こととなります。そして、「究極の読書家」なる存在を心に描くなら、それは、本を手に取ることすらない、つまり、「読まずに読む」読書家であり、このかぎりにおいて、神のような存在となるに違いありません*1

 読書家を非読書家から区別するのは、読んだ本の量ではありません。したがって、読書家には、「何を読んだのか」を尋ねるのではなく、「読書から何を得たのか」を問うのが適当であることになります。

*1:ビジネス書と自己啓発書を1年間に500冊読むことは、苦役以外の何ものでもありません。なぜなら、このタイプの本の場合、「読まずに読む」ことができるレベルに到達するには、20冊に目を通すだけで十分だからであり、残りの480冊については、表紙と目次を眺めることにより、その内容がわかるはずだからです。正気であるなら、どれほど時間があっても、500冊のすべてを手に取り、ページに視線を落として行を追うなど不可能でしょう。

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