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「沼」について

by 清水真木

「沼」という言葉を耳にして私の心に最初に浮かぶのは、たとえば手賀沼や印旛沼のような「巨大な水たまり」です。また、私よりも上の世代の人々の多くも、「沼」という言葉に同じように反応するに違いありません。

しかし、何年か前から、主にサイバー空間において、水が集まる低い場所とはまったく異なる意味においてこの「沼」の1文字が使用される例に出会うことが増えました。ウィキペディア日本語版には、次のような説明が掲載されています。

泥沼のように特定の趣味にはまり込む様を表すスラング。底なし沼のように、ハマればハマるほどそれに掛ける時間や費用も増大していく。具体的に対象を指す場合は「○○沼」と称し、のめりこむ要素が多いことを「(沼・底)が)深い」と表現することもある。

「沼」がこの意味で——つまり、「素人には面白さを理解することが困難な、しかも依存性の高い趣味」を指すものとして——使用されるようになったのは、「はまって抜け出せなくなる」ものの典型として沼が最初に想起されたからであるに違いありません。

もちろん、はまって抜け出せなくなるのは、沼だけではありません。「湖」にも「池」にも「川」にも「井戸」にも、そして、ときには下水やぬかるみにすらはまることが可能です。自分の身体よりも大きな容積を持ち、そこに落ちる可能性がある水なら、私たちは、何にでもはまるのです。これが「はまる」のもとの意味です。

とはいえ、さまざまな水のうち、私たちの時間や体力を奪う沼があえて選ばれたのには、次のような事情があるに違いありません。すなわち、池や湖とは異なり、「沼」には透明感がないのです。

ある水たまりが「沼」と呼ばれると、この水たまりに対する印象は、これと同時に悪化します。沼とは、何よりもまず、透明感を欠いた、水質の悪い「底なし沼」であり、また、場合によっては、身体にとって有害な物質に汚染されていたり、有害な生物が繁殖しているかも知れません。当然、沼は、誰もが入ることができるものではないばかりではなく、むしろ、接近しない方が安全な場所であり、また、いったん沼に落ちたら、ダメージを受けることなく陸に上がることが容易ではありません。沼は、できれば埋め立ててしまった方がよいものとして扱われることすらあります。

池や干潟の埋め立てには大反対する人がいくらでもいるのに、沼に関するかぎり、埋め立てについては、反対や同情の声が大きくなることはありません。「沼」という言葉の持つ好ましくない語感のせいであるに違いありません。

もちろん、「沼」と名のつくすべての水たまりが底なしで汚いわけではありません。少なくとも、沼は、底なしで汚いという理由で「沼」と呼ばれているのではありません。

それでも——実際の沼の近所に暮らす少数の人々を例外として——依存性の高い趣味を「沼」と呼ぶことは、平均的な日本語話者が「沼」から想起する表象の巧みな転用であり、今後、それなりに長期間にわたって流通する用法となるのではないかと私は勝手に予想しています。

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