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集団の内と外を距てる壁について

by 清水真木

どのような社会集団にも、内と外を距てる壁があります。この壁を形作るのは、内部における意思疎通の前提となるさまざまなルール、ものの見方、言葉遣いなどです。たしかに、ルールを共有し、ものの見方を共有し、言葉遣いを共有することは、集団のメンバーのあいだに信頼関係を産み出すとともに、コミュニケーションに費やされるコストを節約します。

けれども、内輪でしか通用しないルールやものの見方が多くなる——つまり、壁が高くなる——とともに、これらは全体として、1つの信念の体系へと組織されて行くことを避けられません。もちろん、共有された信念が何もなければ、社会集団としての輪廓を維持することができないでしょう。この意味において、このような信念の体系は社会集団にとって必要であるに違いありません。

とはいえ、この信念の体系は、ひとたび集団を支配し始め、また、集団の内部の常識と世間の常識とのあいだの距たりが許容の限度を超えて大きくなるとき、世間とのあいだの意思疎通の障碍として人々の意識に姿を現します。みずからを囲む壁があまりにも高くなり、社会全体にとって有害と見なされるようになると、それは、「反社会的集団」(antisocial group) と呼ばれるようになるでしょう。

ただ、「反社会的」であるとしても、集団の規模が大きいなら、たとえば、芸能界、角界、政界、産業界、宗教界のように、それ自体として1つの社会を作ることが可能です。

たしかに、これらの「界」と外部のあいだには高い壁が築かれており、意思疎通は決して容易ではありません。しかし、それとともに、これらはそれぞれ、完結した「エコシステム」を形作ります。(1つの「界」がいくつもの下位集団に分かれ、それぞれが何らかの壁を具えているのが普通です。)これらの「界」のメンバーの相当部分は、外部と接触する必要がなく、世間とのあいだに築かれた高い壁を普段は気にすることなく生活することができるのです。

ところが、小さな集団の場合には、メンバーの誰もが外部とつねに接触しており、内輪でしか通用しない独自ルールと世間の常識のあいだの「ズレ」に注意を向けながら生活しなければなりません。また、前に述べた巨大な集団とは異なり、小さな集団の場合、高い壁があっても、これに世間が気づかないのが普通です。

高い壁を持つ小さな集団に長期間にわたって閉じ込められた存在を代表するのが「アダルトチルドレン」と一般に呼ばれている人々です。

日本語の「アダルトチルドレン」は、adult children of alcoholics(アルコール依存症に陥った人々のアダルトチルドレン)またはadult children of dysfunctional family(機能不全に陥った家族のアダルトチルドレン)の短縮表現として使われるのが普通です。アルコール依存症のメンバーを持つ家族と外部とのあいだには、特に高い壁が築かれているのが普通です。

アダルトチルドレンの問題とは、家族の内部における(ときには暴力をともなう)虐待や抑圧や無視の問題であると一般には考えられています。また、このような点が忘れられてはならないことは確かです。とはいえ、アダルトチルドレンが抱える精神的な諸問題は、虐待や抑圧や無視にあるというよりも、むしろ、本質的には、内部と外部のあいだに築かれた壁に由来するものであるように私には思われます。

言い換えるなら、家族の内部で共有されている信念の体系、つまり、内輪でしか通用しない独自のルール、世間では受け容れられないような独自の事情や考え方と世間の常識のあいだの距たりにたえず注意を向け、かつ、この信念の体系を隠しながら長期間にわたって生活を続けることは、神経症を惹き起こすのに十分なストレスフルな環境であるに違いありません。

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