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趣味の価値について(後篇)

by 清水真木

※この文章は、「趣味の価値について(前篇)」の続きです。

 ビデオゲームのプレイは、それ自体としては非生産的であり、無報酬で自発的な活動であると一般に考えられています。そのため、みずからの趣味に「ゲーム」を数え入れる人は少なくないように思われます。しかし、ゲームの目的が、プレイ自体ではなく、高いスコアを獲得すること、ゲームを早くクリアすること、あるいは、誰かとの会話の口実を作ることなどであるなら、ゲームのプレイは趣味ではなく、片づけられるべき対象となります。このような動機でゲームをプレする人は、ゲームで遊んでいるのではなく、ゲームを処理しているにすぎないことになります。

 また、ゲームを「処理」することは、ゲームを言葉の本来の意味において「プレイ」することにはならず、したがって、処理されたものは、もはや「ゲーム」ではなく、無報酬の、しかも、外部に何も産み出さない作業であり、一種の苦役となるでしょう。

 さらに、必要に迫られて従事する——つまり、外部にある目的に従属する——活動は趣味ではないという事実は、私たちに、趣味というものが能動的、主体的な活動でなければならないことを教えます。実際、多くの人が趣味の実例として挙げるものは、盆栽、陶芸、彫刻、釣り、ソバ打ちなど、その外観に関し、何かを能動的、主体的に産み出す活動としての性格を共有しています。(もちろん、趣味は本質的に自己目的的ですから、重要なのは産み出されたものではなく、産み出す活動それ自体でなければなりません。)

 趣味を楽しむとは、自己目的的な活動に能動的、主体的に従事することを意味します。したがって、「心身の健康のために趣味を持て」という命令は自己矛盾に陥っていることになります。なぜなら、第1に、趣味が趣味であるためには、外部に目的を持たないことが必要だからであり、第2に、趣味は命令されて持つようなものではないからです。趣味というのは、本質的に一種の「沼」であり、趣味を持つためには、沼に「はまる」のを辛抱強く待つ以外に道はないのです。

 とはいえ、言葉の本当の意味における趣味を持つことには重要な意義があります。というのも、趣味は、人間に固有の活動だからであり、人間の人間らしさを表すものだからです。実際、人間以外の動物になしうるのは、必要に迫られて行動することだけであり、自己目的的な自由な活動に与ることはできません。趣味を持つことができるのは人間だけなのです。趣味の圏域は、人間らしさの圏域であり、私たち1人ひとりの生存にとり、無視することができない役割を担うものであると言うことができます。

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